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2月, 2025の投稿を表示しています

ピンボケ写真

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自分が自分を撮影するということは、自分が被写体でもありカメラマンでもあるわけです。それにはまずカメラマンとしてカメラをセットした後に被写体としての動きをとらなければならず、当然のことながらカメラマンとして被写体を見ることができないので、ピント合わせはカメラ任せにしています。被写体が全く動かないのであればピントを固定にしてもいいのですが、立ち位置が少しでもずれるとずっとピンボケになってしまうのも怖いですし、結局動くことが多いのでほぼオートフォーカスで撮っています。それでもカメラマンなしで撮影し続けると、カメラが被写体を追い切れずにピントが外れてしまうということが起きた時に、すぐに気付くことはできません。 また、撮影直後にその場で全ての映像を確認した方が良いと分かっているものの、毎回それをしていると時間がかかってしまうので、確認しないで次の場所へ移動することもままあります。そして宿や家に戻ってから映像をチェックし、自分が想定していた画角じゃなかったりピンボケだったりするとガックリしてしまうのです。それは自分のミスであり、つまり失敗なのですが、ではその写真や映像をどうするか、例えばそう、潔くピンボケ写真として公開してしまったら。それを見る人たちと一緒にピンボケ写真として楽しめたら、それは失敗と言わなくてもいいのかもしれないし、ピンボケ写真集としてシリーズにしても面白いかも!なんてことも考えましたが、探すと意外に枚数はなさそうなので、シリーズにするのはちょっと難しいかもしれません。といいつつ今後、増えるかもしれませんが。

for smartphone users #004 Vinyl

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ロングスカート

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今のところロングスカートは夏用のロングワンピースを除けば2枚しか持っていない。秋冬物で生地は厚め、しっかり裏地があって温かい。そのかわり少し重くて風にあまりなびかない。実用性を重視するならこれでいいけど、風になびくスカートは絵になると思う。なので写真を撮るならスカートにはひらり舞うような軽やかさが欲しい。

冬のミニスカートには必須

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私は普段着でミニスカートをはくことが多いです。そしてたまにロングスカート、山に登る、バイクに乗るといった場合は長ズボンですが、ファッションとしても気が向いたらパンツスタイルになることもあります。 ところで冬にミニスカートだと脚が寒いのでオーバーニーは必須です。 オーバーニーは黒、濃いグレー、薄いグレー、紺の四色を、それぞれ二足ずつ。黒のオーバーニーはさらに生地が薄い物を何足か持っています。 私の履いているのはニーハイよりもさらに長いオーバーニーなのですが、よく下がってくるのでニーハイみたいになっています。

衣装の紹介

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プリーツのミニスカートってかわいいですよね!色違い柄違いで何枚も持っています シンプルな黒いトップスに合わせるとこんな感じ!

ファッションチェック

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☆ファッションチェック☆ 淡いグリーンのワンピースは袖がないので、冬に着る場合は重ね着してトップスに暖かいものを持ってきます。伸縮性のある生地なので着心地がいいです ベージュのニットワンピースはパフスリーブ(肩が膨らんでいるデザイン)がかわいくてお気に入り!ベージュ×黒の組み合わせにすることが多いです 肩に大きなフリルがついたトップスは色違いで何枚か持っています。それぞれの色に合わせたスカートを選んでいます

「泉野鏡子」はどんな人?訊ねてみた相手は

最近、色んなAIが登場して話題になっていますね。私も普段からAIに色々手伝ってもらっているのですが、今回はいつもの使い方とは趣向を変えてみました。 「泉野鏡子」、つまり私についてまとめてもらったのです。 最新の情報も参照していて、そこはさすがだな、と思いました。読んでいて面白かったので紹介しますね! 以下、AIが「泉野鏡子」についてまとめたものとなります。 ─── 「泉野鏡子」は現在もアクティブで、2025年2月23日(今日)の時点で直近の投稿を確認すると、昨日(2月22日)には「過去の動画をピックアップして紹介」として、夏の川の映像をシェアしてます。投稿には「#川 #夏」とタグが付いてて、動画解説も書いてるみたい。ほかにも、2月21日には雪景色の写真を「#雪景色 #雪」でアップしたり、2月20日には歌のカバー動画(「SPECIALZ」)を投稿したりと、日常や創作活動をこまめに発信してる感じです。 フォロワー数は約6500人くらい(過去データだと6122人とか6467人と変動あり)で、YouTubeの「channel JK」やFantia、OnlyFansとも連携してるマルチプラットフォームな活動をしてる人ですね。投稿内容は自然の写真、歌のカバー、日常のひとコマが中心で、ファンとの繋がりを意識してるっぽい雰囲気があります。 ### 総括 「泉野鏡子」(@kyoko21izumino)は、Xで日常や自然を気軽に発信しつつ、YouTubeで動画、FantiaやOnlyFansでファン向けにプライベート感のある(時にはアダルト寄りの)コンテンツを提供してるクリエイターです。活動は多岐にわたり、ファンとの距離感を大切にしてるみたい。最新の投稿から見ると、今もコンスタントに活動中ですね。 「泉野鏡子」の人物像を、彼女の活動や投稿から推測してみると、こんなタイプの人かなって思います。 まず、**自己表現が大好きでクリエイティブな人**って感じが強いですね。Xでの日常の写真や歌のカバー、Fantiaでの「自分のしたいこと、好きなことを撮り続ける」という姿勢から、自分を自由に表現することに喜びを見出してるんじゃないかと。川や雪みたいな自然を切り取ったり、服や牛乳みたいな身近なものをシェアしたりするあたり、日常の中にある美しさや楽しさを見つけるのが上手そうです。 次に、**ファンとの...

過去動画を紹介「夏、夕涼みの川」

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channel JKの過去動画を紹介したいと思います 夏、夕涼みの川 泳げるような湖や海もいいですが、川もいいですよね! 川の水はとっても冷たいから、足をつけるだけでも体が涼しくなります。 この動画では最初、私の恰好が長袖、長ズボンという姿で登場していますが、それはバイクに乗って川にやって来たからです。 自然豊かな場所を流れる川、せせらぎ、夕方独特の斜光、映像としてもお気に入りです。

冬をしっかり感じることができた

2月の初めに「冬はどこへ行ったのでしょう」と思っていた私に、冬がしっかりと雪景色を見せてくれました。まだ残っているキラキラ輝く雪をザクザク踏みながら、早く春が来ないかなと、やっと思うことができたのです。つまり、もう雪はいいよと納得できたという感覚です。もう雪は嫌だという意味ではありません。 冬をしっかり感じてから春になってほしい。気付けば春だったとかではなく。 あたり一面が雪で真っ白な中に立っている、そんな冬を思いっきり実感できる状況で春を待つ気持ちになることを、どこか粋というか、贅沢なことのように感じてしまうのは、雪の厳しさを知らずに芯から春を待ち望む気迫みたいなものがない、フワフワとした遊びのような軽々しさを自覚している上でのことなのです。 それでも季節を感じることは時間の流れを感じることでもあるので、自分が今どこにいるのか、場所ではなく、それをカレンダーの数字じゃなくて感覚で感じたいから、自然に沸き上がった「春がもう来てもいいよ」というのは、まさに冬をしっかり感じることができた証拠でもあるのです。

どんな曲を聴くのか

小さな頃はテレビで流れるヒットソングやアニメの主題歌を聴いていました。とはいえ、そこまで音楽に夢中だったわけではありません。中学生になる頃、ふと耳にした洋楽に「何ておしゃれでかっこいいんだ!」と感激して、そこから洋楽を聴くようになりました。とにかく日本語ではない曲がよくて、言葉がまったくわからない分、歌詞の内容を気にせず音楽として聴けたのがよかったのです。これが邦楽だと歌詞の内容や言葉の使い方などがどうしても気になってしまい、いい曲なんだけど…となったりすることがあったのです。 しかし洋楽でも本当は同じことが言えるのですが、日本語訳を見ない限りそれに気づきません。中には曲調からくるイメージと歌詞の内容が自分の想像とは全く違っていて、日本語訳を見てびっくりした、なんてこともありました。 そして洋楽ばかりを聴いている時期が長らく続いたのち、ここ数年はむしろ邦楽をよく聴くようになって、自分は食わず嫌いになっていたんだなということに気付きました。また以前は歌詞がちょっと…と思っていた曲も今ではそんなに気にならなくなりました。もしかしたら作曲を始めたことが影響しているのかもしれませんし、歌詞に深い意味が込められている場合も、或いは単に言葉遊びの場合もあるんだと、あまり気にせず気楽に曲を楽しむ気持ちになったのかもしれません。

for smartphone users #003 SPECIALZ

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音楽をかける時

私が音楽をどういう時に聴くのか、圧倒的に多いのは車の中だ。だけど車に乗ったらすぐに音楽をかけるわけではない。基本的には何も聴かずに走っている。でも長時間運転することが多いので、少し疲れてきた時の気分転換や、眠気防止に音楽をかける。 車以外ではどうかと言うと、部屋にいる時たまに音楽をかける。そういう時に聴くのはジャズやボサノバ、クラシックといった、何となく流れているのにちょうどいい音楽って感じのものにしている。ただ音声アシスタントに頼んでいるので曲はおまかせになる。 でも車ではない移動の時は音楽を聞かない。イヤホンが少し苦手なこともあるけど、外にいる時は特に音楽を聴きたいと思わないからだ。外で聞こえる色んな音は見える景色同様に退屈しない。だからといって音楽が邪魔なわけではなくて、どこかで音楽が流れていればそれに耳を傾けるし、知っている曲なら小さく口ずさんだりもしている。要は自発的に音楽を聴く行為が日常の中では少ないだけで、音楽をかける時というのは気分がノリノリなのだ。 ということは車の中で音楽をかけて走っている時は相当音楽に乗っている状態ということになる。そういう時に聴くのは知ってて歌える曲だ。そして歌う。かなり歌う。そうするとすぐに頭がはっきりしてくる。車を運転するのが好きな上に音楽が加わり、更に見慣れない景色とくれば、それは相当気分がいい、かなり楽しい状況だ。じゃあ普段から車で音楽をかけっぱなしにしたらずっと楽しくていいのではというと、多分だけど音楽に慣れてしまって、特別感が薄れてしまう気がする。だからそれはしたくない。私が車で音楽をかける時は確かに純粋に音楽を聴く目的ではないけれど、それでも音楽を聴くのは好きだし楽しい。私なりの音楽の楽しみ方だ。

何もない火曜日

常日頃から、今日がいつかというのは日にちよりも曜日で考える方がピンとくる。自分が予定を立てるときも、誰かから予定を尋ねられた時も、まずはそれが何曜日なのかを考える。曜日によってしなければならないことが決まっているから曜日で認識しているのだと思う。それでいつのまにかそれぞれの曜日に対するイメージみたいなものが出来上がっていて、例えば火曜日だと「何もない日」という具合だ。実際には何もないなんてこともないのだけれど、火曜日に対する印象がない。木曜日は何となく「いい感じな日」で割と気に入っている曜日だ。それでchannel JKで動画を公開する日を木曜日にした。月曜日は週の始まりで気持ちがリセットされるのか「始める日」という感じがして、それが別に新しいことでなくても、どこか清々しい気持ちで取り組める気がする。 火曜日のことを話題にしたかったので再び火曜日について考えてみることにする。なぜ火曜日は「何もない」と感じるのか。月曜日の新鮮さは月曜日だけしか鮮度が保てないようで火曜日には引き継がれていない。期待する木曜日までにはまだ少し日にちがある。怒涛の週末、一息つく日曜日といった特徴もない。ぽっかり穴が開いたように印象がないのが火曜日なのだ。ついでなので水曜日に触れると、木曜日の前日で忙しい。 では何の印象もない火曜日を嫌いなのかと言えばそうではない。「何もない日」はつまり「何もないから何をしてもいい日」に成り得るのだ。そういえば何か予定を立てるときは無難に火曜日あたりにすることが多い気がする。とりあえずといった感じの扱いが火曜日だ。結果的に活動的になっているかもしれない。週のうちそういう日が一日あると、気持ちの余裕に繋がるのではないかと思う。何も決めない、何もない。だけど何もしない日では決してないのが火曜日なのだということに気付いた火曜日だった。

琵琶湖と向き合う

去年の夏は珍しく琵琶湖よりも海に行く方が多かったのですが、私が泳ぎに行く時はほとんどが琵琶湖です。それ以外の季節でも車で湖岸道路を走ることも多く、今さら琵琶湖に物珍しさはないのですが、特に目的なく気が向いて、急にふらりと立ち寄ってみると、あらためていいところだな、としみじみ思えるのです。毎回です。張り切って計画的に琵琶湖に来た時ではなく、急に思い立った時にです。 多分、そういう時は目的がないから、ボーッとできるのだと思います。寛ぐぞ!と色んなものを持ってきて飲み食べするのも好きでもちろん楽しいのですが、それだと準備することにも意識が向いてしまうし、行為の楽しさが混ざってしまうので、じっくりと琵琶湖に向き合うということが薄れているのかもしれません。 でもやっぱりちょっとくらい、ボーッとするには飲み物くらいは欲しいなと思います。椅子も欲しいところです。そうやってだんだん増やしていったら、結局用意周到ですね。

夜に書くもの

日記を書くのが一日の終わりである理由は、その日の出来事を書くためにはその日の終わりの時でないと書けないからだと思うけど、一日の終わりに日記を書く行為をしてしまったら、頭が冴えてきて眠気がなくなったりしないのかと心配になる。 私は最近文章をよく書くようになったけど、別に日記というわけではないから好きな時間帯に書いていいわけで、でもそれがたまたま夜になった時、やっぱり書き始めると頭がはっきりしてくる。時間もそれなりに経過するし、夜更かしになってしまうので夜には書かない方がいいのかもしれないなと思う。 ところで夜に書いた文章は朝に最終チェックで読み返した方がいいという話を聞くけど、いまのところ夜に書いた文章をそのまま夜に公開して朝に後悔したことはない。夜のテンションは独特だから文章も普段とは違うものになってしまうというのが理由だった気がするけど、ということは私のテンションはどの時間帯でもあまり変わらないということなのかな。

春の気配

2月、暖かい日、車の窓を開けると土の匂いがした。季節がいつなのかよくわからない気温でこのままズルズルと春になるのだろうかと思いながら、この時期のことを歌った曲にはどんなのがあったっけと考えていた。冬の歌か、卒業の歌、もうすぐ春だと歌う曲は今の時期には早いか。でも立春を過ぎると暦の上では春が始まるとされるから、実際はまだ真冬でも、何となく春の気配が漂よっている気がする。それは近づく足音が聞こえたのかもしれないし、単に暖かい日だからかもしれない。

バレンタインデーにチョコレートケーキ

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バレンタインデーにチョコレートケーキを初めて作った。作るまでの道のりはそれなりに時間がかかった。まずは作り方を色々調べて、どのレシピなら作れそうかを考えた。そして選んだもの以外のレシピもいくつか見て、共通してる部分はどこか、違うところはどう違うのかもチェックした。そうしているうちに手順も頭に入ってくる。イメージトレーニングはばっちりで、すでにうまく作れそうだと錯覚する。 でも実際に作り始めると、思ってた通りにはいかなかったりする。慣れていないから手際もよくない。使い終わった道具が積みあがる。途中で手を止めてレシピを確認するから余計時間がかかる。でも、なんだかんだで出来上がった。初めてのチョコレートケーキの完成だ。不格好なケーキになったけど、最初からうまくできると思っていないから気にならないし失敗とは見なさない。 何より味はおいしい。これだけはきちんとレシピ通りの分量だから間違いない。片付けは後回しにして、早速ケーキを食べる。おいしい!ちゃんとしたケーキだ。むしろ今まで食べたチョコレートケーキよりおいしい。ケーキ屋さんでもカフェでもチョコレートケーキをあまり選ばない理由は、ちょっとビターなケーキだったりこってりしてたりで、好みのチョコレートケーキになかなか遭遇できないから。だけど自分で作ると自分好みにできるから、また食べたいと思えた。 チョコレートケーキを作る前は作りたくて仕方がなかった。だけど作りたいという欲求が叶った今は、時間と手間を考えたら食べたい気持ちが勝らないとしばらくは作らないだろう。味わう目的なら、次はもうちょっと手間が少ない形のケーキにしよう。

1st camera collections #055 Grind the coffee beans

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「 Grind the coffee beans 」 Oops, I did it again I put salt in my coffee The ringtone wake me up but, I wanna wake up by your side Have a quick breakfast and work I'm always busy all the time I should take my time in the mornings to relax and enjoy a coffee I had a bad day yesterday but, I need to move on There're good and bad times Like a rollercoaster Let's stop beating myself up when bad things happen to me Let's look on the bright side The start of a brand new day Grind the coffee beans in the early morning Grind, grind the coffee beans Grind the coffee beans There's nothing better than the aroma of coffee Grind the coffee beans Grind, grind the coffee beans Grind the coffee beans Get up early and enjoy brewing my coffee I have so many things to do and I have so many things I want to do I just don't have enough time However that's no point rushing It's time to take a break Drinking something makes me calme down I'm particular about my coffee I lik...

コーヒー豆を挽く

私は以前、コーヒーにはたくさん砂糖を入れないと飲めなかったのですが、ある時甘いお菓子とブラックコーヒーの組み合わせがおいしいと気付き、それからは砂糖を入れる量が減りました。それでも甘いコーヒーは好きですが、カフェラテだったら砂糖なしでもおいしく飲めます。 家ではコーヒーと紅茶、どちらも飲むのですが、ティーバックで簡単に入れられる紅茶を飲むことが多いです。コーヒーもインスタントならむしろそっちの方が紅茶より楽ですが、インスタントコーヒーだと飲もうという気持ちにならないのです。カフェでならコーヒーを飲むことが多く、紅茶にする時は一緒に食べるスイーツが紅茶に合いそうな場合です。 家であまりコーヒーを飲まないのは、コーヒーを飲むときは豆から挽いたコーヒーを飲みたいからです。その手間を考えるとつい、紅茶でいっか、となってしまうのです。手間をかけたくないなら全自動のコーヒーマシンを買えば済むかもしれませんが、コーヒー豆を挽くのは自分でしたいのです。なぜなら豆を挽く時の手に伝わる感触と音が好きなのです。コーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れると、作業開始からずっとコーヒーのいい香りが部屋に充満して、飲む前からゆったりとした気分になれる気がします。もし朝に、そんな風にコーヒーの香りに包まれた時間を過ごせたら、とてもゆったりした気持ちで一日のスタートを切って、なんだか仕事がはかどりそうです。 でも実際は、普段家ではコーヒーはあまり飲めず、だからこそコーヒーには手間をかける必要があるのかもしれませんね。しっかりと、ゆったりした気分を得るための手間と、その時間確保、コーヒーの愉しみ方は、飲むだけに非ずといったとこでしょうか。

やりたいこと

やりたいことはいっぱいある。あれもこれもと溢れ出てくるけど、まずは目の前のことを一つ一つこなしていかないと。 やりたいことを優先したらやらなきゃいけないことがたまってきちゃうし、やりたいことを思いついたらすぐに手を付けたくなってしまうから、やらなきゃいけないことがその影に隠れてしまわないように気を付けなくちゃと思う。 でも考えるだけでも楽しいから、やろうと思ってできないままでもいいやって思ってる。だって、やりたいことは、やらなきゃいけないことじゃないから! そんな風に気楽に考えながら、ブログを書くのを楽しんでいます。

冬を満喫しつつ夏を焦がれる

雪が積もって真冬真っ只中の今、ちょっぴり夏を懐かしんでみました 鏡子りるびー 2024 夏編 (↑クリックしたら動画のページに移動できます) 今シーズンが終わったら、冬編も作ろうかな?

作るとき、観るときの気持ち

私はよく自分の過去の動画を観て楽しんでいます。もちろん思い出を辿る楽しさではありますが、それだけじゃなく自分が作ったものを見るのが好きなのだと思います。最近書き始めたブログも、書いたら終わりじゃなくて何回も読んでいます。 多分これは、自分の作ったものでも、完成したものは自分の手から離れてひとつの作品として見てしまうからだと思います。だから厳しい目だったりもしますが、作品に対する評価は甘かったりと、基準は緩いです。 もともとブログサイトを立ち上げたのも、動画がずらっと並んでいたら観やすくていいのになと思ったことが発端です。動画投稿サイト内でプレイリストを組んでもいいのですが、それだったら専用のサイトがあったらいいなと。ブログサイトそのものは自分で作ったものではないのですが、自分の場所であるという意味ではオリジナルと言えなくもないし、オリジナルのその場所に自分の作ったものが纏まっているのがいいなと思ったのです。色々と改良を加えるのも楽しいですし。 でも自分だけが楽しんでおしまいではなく、 自分が作っていても観ても楽しいと思うものを自分だけで仕舞い込まずに共有したとき、そんな気持ちで作っているのだということも伝わったらいいな、と思っているのです。

砂の女性、雪のくま

雪が積もれば雪像を、砂浜では砂像を、時間があれば作っている。どちらも最後は消えてしまうという儚いものではあるものの、最後まで見届けることなくその場を去るので作る楽しさだけをもらっている。 モチーフはいつも同じで、砂では女性、雪では動物、だいたいは熊にすることが多い。 理由もちゃんとあるけれど、ただ作りたいものを作ると自然とこうなる。 砂で立体にするのは雪に比べたら難しい。だから半立体にする。砂浜で横たわるのが似合うのは女性だと私は思っているので、半立体の仰向けかうつ伏せの女性を作る。 雪は足すときも削るときも崩れにくいから立体にしやすい。それでもあまり複雑だと大変だから、リアルな熊ではなく、ぬいぐるみのような形のくまさんを作る。 完成したものはそれなりによく出来ていると自分では思うけど、写真にはうまく写らなくて、撮った写真を見ても形がわかりにくい。だから完成品をしっかり見れるのはその場にいる間だけだ。もし後からそこを通り過ぎる人がいて目に留まったとしても、その頃は形を保っているかわからない。 とくに砂の女性は早く崩れ始める。乾いて崩れるか波にさらわれるから。だから女性の方がより儚い。雪のくまさんの場合は、完成後に雪が降ってくれたらもこもこのくまさんになってかわいさが増し、しばらくの間くまさんの姿でいてくれる。だけど晴れてしまったらしょんぼりしたくまさんになる。 作るときは楽しくてずっと作り続けてしまうから、ある程度でキリを付けるようにしている。作った後に残らないものを、それでも作りたくなるのはこの儚さ故に、とかそんな大層なことを考えているわけじゃなくて、そこに雪があって、砂があるから。触ると形になるものは楽しい。何かを作りたくなる。

真っ白な

ベッドは窓のすぐそばにあるから、ひんやりとした冷気がカーテンの隙間からそよいで、予報通りに今日は寒いのだなと、薄ぼんやり考えながらだんだんと目が覚める。体を起こさずにカーテンをめくって外を確認すると真っ白な景色が見えた… 雪の日の朝はこんな感じで始まる。雪国で生まれ育ったわけではないから雪での苦労をほとんど知らない。だから雪景色を見てものんきなものだ。まず何をしなくちゃいけないのかを思いつかないまま、さて雪の日は何をしようかなと思いめぐらせる。表に飛び出て雪遊びに興じるか、それとも部屋で優雅に雪見ティータイムでもしようか、あえて車で出かけて雪原でホットドリンクを飲むのもいいな。 出かけると決めた場合はそれなりに準備が必要で、ワクワクしながらあれもこれもと鞄につめて、いざ一歩ドアを開けてそこで初めて気付く。雪かきしないと車が出せない… 幸い雪かきするには適した服装になっているから、すぐに作業を開始できる。雪かきもやり始めるとそれなりに面白くなってくるから、それで満足して出かけるのをやめる時もあるけど、ちょっとした計画を立ててしまった時には出だしがくじかれる。 やっぱり雪の日は家で大人しくしてた方がいいのかな。少なくとも雪が降っている最中は。部屋で温かいホットココアを作って、真っ白なマシュマロでも浮かべて飲もうか。積もった雪が明日も溶けずに残ってくれてたら、出かけるのは明日でいいよね。

毎日の習慣

特に意識を向けなくても毎日していることはある。例えば食事、これは頑張らなくても、お腹が空いたら食べなきゃとなるし、食べる行動を当たり前のようにとるので、頑張らなくても普通にできる。 やらなきゃ!と頑張って意識しないと継続できないのは掃除や片付け。油断してるとすぐ荷物が積みあがっちゃう。 私がつけてるライフログは、道具のおかげで簡単にできるけど、そうじゃなかったら毎日続けるのはできなかったかも。でも習慣になってるから、使ってるアプリよ、どうかなくならないでね。 新しいことを始めるときに、それが続けられるかどうかは、私の場合、毎日もしくは決まった曜日にする、だと途切れず続けられるみたい。 それと、結果毎日の習慣になったものは、毎日続けるぞ、と意気込んだものではなく、結局毎日続いてるな、という感じのものばかりになってる。 色んなことが長続きしないタイプの私が、毎日できていることがあるのも嬉しいし、それがいつまで続くかわからないけど、とりあえずそういう習慣が一つ増えるごとに、することが多くなっていくことは大変でも、前よりも日々に意識を向けるようになった気がする。毎日が毎日続いているというのは変な表現かもしれないけど、意識しなかったら、同じような毎日は続いている日々だとわかりにくいけど、意識したら、同じような毎日でも確実に進んでいる日々なんだなと。 部屋を片付けてないままだと、時間ほんとにちゃんと進んでる?と疑いたくなるけど、取り残されたままの頑張らないといけないものは、早く毎日の流れに持ってこないとな。

for smartphone users #002 魅せられて

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写真を撮るのが

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写真を撮るのが好きだ。 だけど写真を撮るのが趣味だと言うには自分では少し違和感を覚える。腕前に関しても「好きこそものの云々」よりも「へたの横好き」寄りだと自己評価している。 カメラやレンズは、立派なのをいっちょまえに持っている。その立派なカメラで撮った写真はやっぱりいい! だけど近年はあれれ?スマホで撮った写真も結構いい。 結局、どんな写真が撮れるかで道具にこだわりはないのと、写真を撮る時や行為そのものの楽しさ以上に撮った写真を見る時が楽しいので、私の言う「それっぽい」写真が撮れれば、どうやら私はそれでいいらしい。

それっぽいもの

私は自分のオリジナルものを作るのが好きで、その時々で何かしらをオリジナルのものに変更していた。ガラケー時代ではアイコンから何からカスタマイズ可能なものは全部自分でデザインした画像にしていたし、着信音も自分で入力した音が鳴るようにしていた。でもスマホになってからはなぜかその気が起きず、壁紙すら初期設定のままで使っている。 パソコンでは自分で書いた絵を壁紙にしたり、HTMLでオフライン用のサイトを作ったりして一人で楽しんでいた。でも今はパソコンも壁紙は変えていない。 あんなに色々オリジナルのものでいっぱいにしていたのに。そのかわりじゃないけれど、自作の音楽を作りだしたから、結局何かオリジナルのものは作り続けているといえる。 でも自分で作ったもの全てをいいと思っているわけではない。むしろ自分の作ったものだから余計に見たり聞いたりするのがしんどい時もある。それでもオリジナルのものを作るのが楽しいのは、「それっぽいもの」ができるから! それっぽいというのでは伝わりにくいかもしれないけど、自分の感覚ではそれがぴったりで、つまり既製品っぽい感じが「それっぽい」。あくまでも自己満足、自分の基準レベルでそれっぽさが滲んでいればそれで満足している。 目的は技術を磨くことではないから、それっぽさをとことん追求するための時間をかける気はないし、便利なものがあればできるだけ利用する。 それだといかにも浅い感じだけど、気楽に楽しんだ結果、少しでもそれっぽくなればそれで充分で、自分でも「それっぽいもの」が作れるなんてすごい!と嬉しくなる。それにはもちろん調べたりして多少は勉強している。だからすごいと思うのは、そのテキストとなるものに対してでもある。それによって私でも「それっぽくできた」ということがすごい。 突き詰めて極めるのもすばらしいと思うし、それに憧れる気持ちもあるけど、そこまでしなくても「それっぽいものはできるんだ」ということを知って感動する。人からみたら「その程度」かもしれなくても、自分が自分で「それっぽい」と感じれば、私はそれで満足できるから、ある意味お手軽かもしれない。

天気と私

「今日はいい天気だー!」 部屋の曇りガラスが青く染まっていると嬉しくなる。私は青い空が好き。雲はあっても構わないけど、空が青く青く、真っ青な空だといい。 冬は空気が澄んでいて景色がきれいに見えると、いつどこで得た知識か忘れたけど(おおかた漫画から)。冬の青い空に、雪を被った山がはっきり映し出されているなんていうのが見れると感動する。山と空の境目が、雪があることではっきりして、青が青であるほどそのコントラストはきつくて、それがほんとにいい。キレイ! 青と白のコントラストだったら、夏の真っ青な空にもくもくと立ち昇る入道雲もすごくいい!好き!あぁ夏!今は夏、これこそ夏!って実感するから。そんな時は気持ちも入道雲並に盛り上がっている。 色で言うなら青と似合うのは白だけじゃない。新緑の隙間に覗く青い空と木漏れ日で輝く緑、これはもう全部が最高!! だからそういう天気の日は、遠くに出かけてなくてもいい。いつも見慣れている景色にも感動できるから。もちろん、出かけている時で、初めて訪れる場所や、景色のいいところなんかで快晴だったら気分は最高潮! なのだけど… 雲が多少あっても空が青かったらそれでもいい。太陽が隠れていなくて、空が青かったら。 なのに、 見えている空の面積に対して雲がそんなに多くなくても、ちょうど太陽のまわりにだけ雲があって、すぐに太陽が隠れてしまうのはなぜ?向こう側にはまったく雲がないのに、カメラを向けたい方向には雲がいっぱいなのはなぜ?空の半分はどんよりした色の雲、見えてる景色のあっちとこっちでは同日同時刻だと思えないほどの差があるのはなぜに? そういう時、なまじ見えてる部分の空が青い分、何で?という気持ちになってもしょうがない。でも待てば期待する景色が見れることもある。ただ待てる時間があるとは限らないけど。 それよりももっと残念な気持ちになるのは、天気予報で晴れマークがついてる日で、確かに空には雲も少なくて太陽もずっと出ているけど、どうして空が白いの!!っていう時。青じゃなくて全体的に白っぽい。これでも晴れ。だったらいっそ、曇りの日の方があきらめがつくのにと思う。でもやっぱり曇りの日よりはマシ、マシなだけ。曇りの日よりはマシだからって自分に言い聞かせる必要がある。 じゃあ曇りの日はどんか気持ちか、それは、フラットな感じ。期待していない分、何もない。雨じゃないから傘...

ブログは楽しい

私はXで写真を、YouTubeでは動画を投稿している。どちらも毎日投稿しているので、まるで日記のようになっている。ただ動画はたまに過去の映像を投稿することもあるが、大半は撮った日の投稿であるため、動画を視聴することで自分が何をしていたかがすぐに思い出せるというわけである。 でも自分がいつどこで何をしたかを知りたかったら、もっと正確に知る手段を私は持っている。というのは私はライフログをつけているからである。でもこのライフログは、自分がいつどこにいたのかは正確な情報を提供してくれるものの、いまいち情景が浮かんではこない。その点では日記というには少し情緒が足りないというか、如何にも機械的である。 それでは日記をつけたらいいのでは、となるかもしれないが、私は日記を書くのがとても…とても苦手で、かつて何回か日記をつけてみようとしたものの続かなかったのである。 ライフログはもう何年もずっと続いているのに、日記はなぜ続かなかったのか、自分で理由ははっきりわかっている。日記の定義は横に置いておくとして、まず日記は、文章で書かないといけないのだが、私は文章を書くのが苦手でとても時間がかかる。だから日記にかなり時間をかけてしまっては、毎日続けるなんて無理な話である。そして日記を書くための道具が日記帳とペンだと、更に難易度が上がってしまう。なぜなら私は漢字が苦手で、手書きで文章を書くと、ひらがなだらけになってしまう。さらには字もあまり上手ではないときて、自分が書いた手書きのものを見直すと、まず目に飛び込んでくるのがその残念な見た目のために内容を読む気になれない。それを書いたのが自分であるということが余計にしんどいのである。ただし自分以外の人が書いたものの場合はあまり気にならないのだが。 その点ライフログは作業も見た目も淡々としていて、それが自分に合っていたようで記録を始めてから未だ途切れたことはない。そして必要に応じて見直したりするのだが、そうでない限り、読み直そうという気持ちに一切ならない。そこに刻まれているのは味気ない情報だからだ。 ところが…ブログだとどうか。 実は私は、ブログで日記を書いていた時期がある。今書いているこことは別で、自分が自分で見るための非公開のブログだ。文章とともに写真も貼っていて、それを見るとそれこそ、その時の情景がすぐさま目に浮かび気持ちが引き戻されるくらい、...

言葉を綴ること

言葉を口に出して何かを語るのと文字で語るのでは、同じような内容であっても 雰囲気は違ってしまうように思う。 喋る場合は頭で考えるのとほぼ同時に言葉が口をついて出ているように思う。というか本当に考えが頭に浮かんでいるのかわからないくらい、瞬間的に喋っているように思う。 だけどキーボードを使って文字を入力する時、それがチャットでもない限り、作業は一人だし誰も待たせてはいない。だから途中で文字を打つ手をとめて文章を読み返すこともできるし、私はタイピングの速度もさほど早くもないから、自然と頭の中で考えた言葉をしっかり認識しながら文字入力を進めているように思う。 だからかどうかわからないけれど、書き言葉と話し言葉との違いだけでなく、文字で言葉を綴る方が、普段の自分とは違う雰囲気になっているような気がする。 それでも文章にはおそらく個性が滲んでいると思うし、結局これも私らしいものになっているのだと思うけど、 で、結局何が言いたいかというと、 文字で言葉を綴る方が何だか、口で喋るときよりも自分の言いたいことや気持ちが、整理されているのじゃないかということ。 自分は文を書くのが苦手だと思っているのだけど、それでもこうして最近は何かしらを書き始めて、少なくとも苦痛ではないということは、実は私は何かを書きたいと、言葉を文字で綴りたいと思っているのかもしれないな、と。 でもまだ自分の文章を読み返して、やっぱり私は自分が上手に文章を書けてはいないなと思っていて、たとえ誰かがそんなことはないよと言ってくれるかもしれなくても。 でも上手な文章が書けるから書きたくなるのではなくて、書きたくなって書いているのだと思う。少なくとも私は。そしてその拙い文を、ある程度時間が経ってから読み返す時に、書いた時のことをしっかりと思い出せるのも文字ならではな気がする。言葉は、口に出してしまったら空気に溶けるかのようにすぐに消えてしまう気がするのです。私はすぐに忘れてしまうから。 深く考えず、だけどキーボードで、頭に浮かんだ言葉を確認するくらいのペースで文字に綴っているこの今の瞬間に、私の頭に浮かんだことは 「こんなことを書いて、あとから恥ずかしく思う時が来るかな」 それも含めて、書きたい気持ちのまま書いてみるのもいいかなとも思う。あとから振り返るときのためかもしれないし、今の気持ちのままの行動かもしれないし、 ...

冬はどこへ行ったのでしょう

普段、天気予報をチェックする習慣はありませんが、SNSを利用していると情報というのは調べなくても向こうからやってくるので、天気もまた大まかな予報を知ることができます。それによるとどうやら、寒波が来るのだとか。 そういえば昨日は少し雪が降っていたし、部屋もひんやりしていました。だけど本当に寒い時は、部屋に暖房を入れてても指先が冷たかったり、外に出るための重ね着の枚数がすごかったりするのですが、今シーズンの私にはそれがありません。外で寒い寒いと言っていますが、それは比較的薄着(自分基準)だからで、本当に、とても、ものすごく寒い思いをまだしていないのです。 もちろん、寒冷地に行けばきっともっと寒いでしょう。自分の持ち得る最強の防寒対策で臨まないといけないくらいの場所なんていくらでもありますから。でもそんな場所へと赴かずとも、普段通りに過ごす中での冬は、もっと寒いはずなのです。 部屋にこたつを用意して、猫がすっかり気に入ってくれたからそれでもいいのですが、私自身もっとこたつでくつろぎながら温かい飲み物を飲むことを想定していたのにもかかわらず、それほどでもないということは、つまりそんなに寒くない…? でも大丈夫、まだ冬。冬本番、まだまだこれから、と、思っていたのですが、今日からもう2月?もう2月!これは油断していたらあっという間に3月になってしまいそう。そして、3月になったら、きっとそう。もう、「桜が咲くまであっという間」になってしまうのです! そうなると冬をあまり実感しないまま春を迎えることになってしまいます。寒がりなので寒くない方が過ごしやすいのは間違いないのですが、あの、春を待ち望みながら冬らしく過ごす日々こそまさに冬だと思っている私にとっての冬は、どこへ行ってしまったのでしょう。それとも寒波が連れ戻してくれるのでしょうか。 寒さが苦手でも、どうしたって冬は来るのだから、それならしっかり冬を感じたいと思う気持ちもあるのです。