ブログは楽しい

私はXで写真を、YouTubeでは動画を投稿している。どちらも毎日投稿しているので、まるで日記のようになっている。ただ動画はたまに過去の映像を投稿することもあるが、大半は撮った日の投稿であるため、動画を視聴することで自分が何をしていたかがすぐに思い出せるというわけである。


でも自分がいつどこで何をしたかを知りたかったら、もっと正確に知る手段を私は持っている。というのは私はライフログをつけているからである。でもこのライフログは、自分がいつどこにいたのかは正確な情報を提供してくれるものの、いまいち情景が浮かんではこない。その点では日記というには少し情緒が足りないというか、如何にも機械的である。


それでは日記をつけたらいいのでは、となるかもしれないが、私は日記を書くのがとても…とても苦手で、かつて何回か日記をつけてみようとしたものの続かなかったのである。


ライフログはもう何年もずっと続いているのに、日記はなぜ続かなかったのか、自分で理由ははっきりわかっている。日記の定義は横に置いておくとして、まず日記は、文章で書かないといけないのだが、私は文章を書くのが苦手でとても時間がかかる。だから日記にかなり時間をかけてしまっては、毎日続けるなんて無理な話である。そして日記を書くための道具が日記帳とペンだと、更に難易度が上がってしまう。なぜなら私は漢字が苦手で、手書きで文章を書くと、ひらがなだらけになってしまう。さらには字もあまり上手ではないときて、自分が書いた手書きのものを見直すと、まず目に飛び込んでくるのがその残念な見た目のために内容を読む気になれない。それを書いたのが自分であるということが余計にしんどいのである。ただし自分以外の人が書いたものの場合はあまり気にならないのだが。


その点ライフログは作業も見た目も淡々としていて、それが自分に合っていたようで記録を始めてから未だ途切れたことはない。そして必要に応じて見直したりするのだが、そうでない限り、読み直そうという気持ちに一切ならない。そこに刻まれているのは味気ない情報だからだ。


ところが…ブログだとどうか。


実は私は、ブログで日記を書いていた時期がある。今書いているこことは別で、自分が自分で見るための非公開のブログだ。文章とともに写真も貼っていて、それを見るとそれこそ、その時の情景がすぐさま目に浮かび気持ちが引き戻されるくらい、鮮明な記憶が蘇るのである。そのためブログを読み始めると、次々と遡って読み進めてしまう。しかも自分で書いたものなのに、その内容に面白さを感じで読んでいるのである。文章のまずさや誤字脱字を見つけてしまっても、それすらも許せてしまうのである。しかも読む時だけでなく、ブログを書く時もまた楽しかった。ブログに載せる為の写真を撮るのも楽しかった。それは読む時を想像していたからだ。


はたしてそれではブログの為だけの行為になってしまっていないか?その時その場をあまり楽しめていないのでは、と思われるかもしれないが、決してそんなことはない。目の前の景色や体験で感じているものを、後の自分にも届けたいという気持ち、それを受け取った時の自分も想像できて、まるで自分へのお土産を買っているかのような楽しさが加わっていたのだと思う。だからひと手間(どころかもっと)かかっていても、楽しさが上回っていたのだろう。


今でもたまに、過去の自分のブログを読みたいなと思うことがある。だけど書いていたブログのサイトは閉じてしまったため、読むのに手間がかかる。バックアップしたデータは文章と写真をわけていて、当時のブログのレイアウトそのままの保存ではないからだ。いつかそれも見やすい形に復元してみようかなとも思うし、公開してみてもいいかもしれない。ただそれには、まず自分がしっかり読んでから決めなければと思う。なぜなら自分に向けて書いていたブログだ。文章はきっと…

コメント

  1. 書面または視覚的な記録は、将来いつか再び読むのに非常に便利です。どちらにも独自の利点があり、相互に組み合わせて使用​​することもできます。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

OnlyFans登録の仕方